2004-08-29 日
トラうさぎ
母は昭和2年3月生まれ、干支はうさぎ。雪うさぎ? ピーターラビット? バニーちゃん? いえいえ、どこを取ったらうさちゃんなのか。母を形容するなら“雄々しく、猛々しく”というのがピッタリだろう。そう、3月生まれの母は前年の干支、寅をしっかり7ヶ月間、祖母の胎内で貯えて、7対3の寅卯(トラうさぎ)と相成ったわけである。
生家は半農半商で商の方は石屋だった。石屋と言っても『寺内貫太郎一家』のような、墓石などを扱う石屋ではなく、河川の砂利をトラックで建築現場に運び込むような作業が主だったらしい。だから、地域で最初に買ったオート三輪の前で写した家族全員でのセピア色の記念写真が、母のアルバムにはうやうやしく貼られていたりする。
そんな商売だったので敷地の中には、マーやん、モーやん、シマやんと呼ばれる荒くれ男達が住み込んでいる小屋があった。そういう所で、兄貴はいるものの六人兄弟の長女として生を受け、忙しい母親を手伝って動き回っていたのだから逞しくもなろうと言うもの。「父親って人が、座敷で本なんか読んでいるのを見つけたら烈火のごとく怒り出す。兎に角、下駄を履いて走り回ってさえいれば、よく働く、偉い偉いと言われたものよ」と、母はよく話していた。家事もいろいろさせられたし、元来手先が器用だったもので、何でもそつなくこなしていたが、体格も良く、健康そのものの母は、外に出て行く手伝いの方が好きだったようだ。高等小学校、今でいうところの中学生ぐらいのある日、「ごっつい男物の自転車に、三角乗りという方法でガムシャラに漕いでいたのよ」。田んぼのあぜ道なにするものぞと、頼まれた届け物を荷台に積んで走って行ったらしい。しかし、雨上がりのぬかるんだあぜ道にタイヤをとられ、思うように進まず、にっちもさっちも行かなくなった時、母はひらりと自転車から飛び降りた。本人は無傷だったものの、大事な届け物も自転車も見事、田んぼの中で泥だらけになってしまった。でも、そういう時には父親は決して怒らなかったらしい。「お前は、男に生まれそこなったなぁ」。それが父親、すなわち私の祖父の母に対する口癖だった。
兄貴が戦争に行くまで、母は兄貴とその仲間達にくっついて歩くのが常だった。日光の華厳の滝、太田の金山、大宮公園、青年達に混じった母の姿が数枚の写真に残っている。これが、一緒に写った男性と体格も遜色無いので驚く。いくら食糧事情が悪くなりつつある時代とは言え、周りの男性がそれほど貧相とは思えないのだが。大宮公園での写真は珍しく晴れ着姿だ。が、その写真撮影の直後だそうな「一緒に乗ったアキラちゃんがさぁ、あんまりボートを漕ぐのが下手だから」代わって漕ごうと立ち上がった瞬間にバランスを失ってボートから放り出され、大宮公園の鯉と一緒に池を泳いでいたのは。「初詣のはずだったんだけどねぇ」。
そんな母の伴侶となったのは、百パーセントお百姓さんの家で育った五男坊の父だった。こちらは、虚弱だが子沢山の母親の下、兄弟助け合って静かに静かに暮らしていたという印象が強い。私が幼い頃尋ねて行くと、祖母はいつも床ののべてある北側の部屋に和服で正座していた気がする。そして私の姿を見ると「来たか、来たか」と満面笑みで、ちり紙に包んだ飴やら菓子やらを出してくれる。しかし、その飴も菓子も祖母の部屋に染み付いた薬の臭いがした。そんな状態の母親の下、父を含めた子供達は幼い頃から、洗い物やら掃除やら出来ることは全て自分達でやったらしい。小さな父が寒空の下、かじかむ手で綿入れの半纏などを洗っている姿を想像すると不憫で健気で、胸が締め付けられるような思いがする。母が同じ事をしているのを想像すると、こちらは布が擦り切れやしないかと心配になるのが関の山なのだが。
体格も、母とその兄弟は皆ガッシリとし上背もある。それに引き換え父と、その兄弟は上背もなければ肉も無い。同じ時代を生きてきてこんなに違うものかと思うのだが。
新婚当初、隣町の父の実家に行く時も、自転車の二人乗りでハンドルを握るのは母だった。
「最初はお父さんが運転する荷台に居たんだけどねぇ」。10分もしないで母は父に言い放ったそうだ。「交代して!!」「もう、危なっかしくてウシロになんて乗ってられなかったのよぉ」。
たくましい腕でハンドルを握り、力強くペダルを漕ぐ妻の荷台で大人しく座っている父の姿が微笑ましく頭に浮かぶ。
それから時を経て、トラうさぎの面目躍如たる事件が起こる。母は私が高校生の時、下着泥棒を捕まえたのだ。女子高校生の可愛い下着が盗まれ続けたので奮い立って、ではなく我が家の場合、曲がり角に位置しているせいか毎朝、下着が投げ込まれ続けたのだ。朝、母が木戸を開けに行くと、庭のツゲの木がフリルのパンティーを被っていたり、色鮮やかなブラジャーを咥えていたりする。当然、母のデカパンでもなければ娘のスポーツ・ブラでもない。「高校生の娘が居るんですからね、何かあったらどうするの」。母は父に監視を申し付けたが、父はしり込みを続ける。業を煮やした母は毎早朝張り込みを続け、何日目かの雪の朝、とうとう泥棒、いや投げ込み犯を捕まえたのだ。ツゲの木の影にうずくまり、キーコ、キーコという自転車のペダルの音が近付いたかと思うと、ブラジャーが空を飛んだ。間髪おかず、母は叫んだ「止まりなさい!!」。度肝を抜かれた、下着投げ込み犯は自転車もろともぶっ倒れ、見事、母は犯人を取り押さえたのだ。それはまだ幼さの残った新聞少年だった。母は「これからはこんな事はしないと約束してくれたら、私は警察にも言わないから」と諭して帰したらしい。
しかし、その日のうちに少年は警察に、ため込んだ下着を持って父親と出頭したそうだ。さすがの母も、警察からその連絡を受けた時、「後から恐くなって足が震えた」そうな。若い女の子を持つ母親というものはからだを張って、敵と戦うものだと知った一件だった。
ところが、後日談がある。警察官が、少年の盗んだ下着を持って、少年の供述通りに一軒一軒尋ねて回ったのだ。我が家を尋ねた警察官が手にしていたのは、ケバケバシイ真紫色をしたハイレグのパンティーだった。私には見覚えがあった。父が慰安旅行でのビンゴゲームで当てて、持ち帰ったものだ。まさか、と思った。「これを、こちらから盗んだと先日の少年が言ってるのですがねぇ」と、警察官は好奇心を包み隠して言ってくる。私は知らぬ存ぜぬでいようと思った。見たけれど、私は使っていないし母が使ったとはとても思えない。いや、思いたくもない。ところが、いとも簡単に母は自白した「はい、私のです」。ウッソォ、本当にはいたのぉ?! 「おとうさんが、旅行の景品でもらってきたのでね」。この現実を聞かされるのが少年の更正には一番の近道かも知れない、と思った事件の顛末であった。